大阪地方裁判所 昭和56年(わ)1014号 決定 1984年3月09日
被告人 中沢沢夫
主文
別紙一覧表(一)記載の各証拠のうち、番号1、2(但し第一項を除く。)、8、15、29ないし33の各証拠を採用し、同(一)記載の各証拠のうち番号2(但し第一項のみ)、3ないし7、9ないし14、16、17の各証拠並びに同(二)記載の各証拠(番号34、35)を却下する。
理由
一 被告人は、昭和五六年二月二二日本件殺人の被疑事実により逮捕(同月二四日勾留、同年四月二七日大阪拘置所に移監されるまで大阪府住吉警察署に留置)され、同年三月一四日同事実で公訴を提起されるまでの間の捜査段階で、当初は南港の現場における殺害行為を否認していたが、同年三月二日以降この点を自白するに至り(その後三月一一日になつて再度否認したが、その翌日からまた自白を維持した。)、司法警察員及び検察官により数通の供述調書を作成されるなどし、またその後余罪である本件傷害の事実についても取調べを受け、同年三月二四日以降右同様数通の供述調書を作成されている。これらの経過に関する詳細は別紙一に記載するとおりである。
二 被告人は、前記逮捕後間もなくのころから留置中の住吉警察署において捜査担当の警察官から暴行を加えられ、また脅迫ないし利益誘導を受けるなどした結果前記殺人の実行行為(南港現場での殺害行為)を自白するに至つたものであるとし、当公判廷においてその点を詳しく供述しているが、その供述内容の概要は別紙二に記載するとおりである。
なお右供述中に出てくる清水慶豊は、山口組系の暴力団の組長とみられる男であつて、傷害、恐喝未遂等による前科を重ねる一方、被告人を被害者とする傷害及び暴行の各罪その他の罪により、昭和五三年一一月八日津地方裁判所上野支部で懲役一〇月の刑に処せられ、昭和五五年三月ころ仮出獄していたが、被告人が本件で逮捕された後債権取立等と称して被告人方に出没していたことが認められる。
三 被告人が暴行等を受けたと供述する警察官らのうち、本件公判で取調べた証人小塩三郎、同菅沼俊雄、同若林友光、同阪井弘らはいずれも暴行の事実を否定している。また証人児島利明は、三月二日午後一〇時ころから被告人を取調べた際、被告人に素直に供述するように説得する一つの材料として清水慶豊の件を持ち出したことはあつたが、その件も後で被告人に聞いたところによれば、清水のことはもう何でもないんだ、あんなものは関係ないんだということであつたし、その他に利益誘導となるようなことを話したことはなく、警察官による暴行の事実もない、と証言する。
しかしながら
1 被告人は二月二五日の取調にさいし、夕食のため一時房に帰され、再び取調のため房から出されようとしたとき、自ら円柱にぶつかつて自傷行為に出ている(三月四日中村紘毅検察官から取調を受けたさい、前額部のこぶのほかに両眼のほうまでも赤紫色のアザができたようになつているのが同人によつて確認されている)が、それは警察官の暴行、自白強要に耐えかねての行動であるとする被告人の供述はそれなりに十分了解できるものであること
2 三月二日になつて二度目のポリグラフ検査が行なわれたいきさつについては、被告人がその数日前から自発的にかけてくれと希望していた旨の児島証言等よりも、むしろ被告人の供述するところの方が了解できること。そして同検査に従事した荒砂技官は、定型の承諾書以外にもう一通被告人自筆の書面を検査前にみせられており、ただその内容については、同人の証言によれば「自分の方から進んで受けたい、という趣旨のものであつて、結果が黒と出れば私の方で認める、というものではなかつた。」というのであるが、右もう一通の書面の提出がなく、被告人の述べるようなものであつたことを否定できないこと
3 清水慶豊の名をあげて誘導したとの点は児島班長自身がその証言で事実の一部を認めていること。すなわち同証言によれば、三月二日夜同班長が被告人に対し素直に自白するよう説得したさい、いろいろ述べたなかで「君自身も警察官に対していろいろしてほしいこともあるんではないか。もしそういうことがあるんなら何もかも素直にしやべつた上で初めて頼むことだ。わたしは清水慶豊のことについても少し知つてるけれども、このことについても君は気になつているんではないか。」とも述べたということであること
4 三月九日石橋弁護人が被告人と接見したさい、被告人は同弁護人に対し警察官の暴行について訴えていること。またそのさい被告人は同弁護人に右足すねの腫れや手指の皮のめくれなどを見せ、同弁護人においてこれを確認したものと認められること。さらに本件殺人事件の起訴後本件傷害事件の起訴前の間に、被告人は同弁護人に対し右傷害事件等の余罪については起訴しない旨警察官に言われたことのあることを告げているものと認められること。
5 三月一一日被告人は検察官中村紘毅の取調べを受けたさい、同検察官に対して警察官による暴行、脅迫、利益誘導等及び自白に至つた理由等についてかなり詳細に訴えていること。
6 ことに右4及び5の諸点に関しては、右検察官中村紘毅は概ね次のとおり証言していること。すなわち同人は、「本件殺人被疑事件の捜査担当検察官として三月四日、一一日、一二日、一三日に被告人の取調をしたが、三月一〇日参考人として仲昭夫を取調べた際、同人から『実はきのう親方が弁護士と接見したとき、おれはやつていないんだということを弁護士に話したときいている』という話があり、またその日ころ石橋弁護人から『被告人はやつていないらしいからよく聞いてやつてほしい。』とか『被告人が警察で乱暴されたと言つているので警察のほうに注意してもらいたい』旨の申し出があり、その際『被告人が丸いすを横にしてその上に正座させられたりしており、弁護人自身も被告人のすねのあたりに傷ができているのをみた』という話も聞いていたことから、三月一一日被告人を取調べたとき、昼前ころに弁護人との接見時の状況について尋ねたところ、『実はやつてないということを弁護士さんに話をしました』と言い出し、警察官から受けた乱暴について話し出した。人差指と中指の間にボールペンのような物をはさまれて、その指をねじ曲げられたとか、それから丸いすを横にされて、イスの脚の上に正座させられたとか、あるいは、肩の上に警察官に乗つかかられ首をグイグイ押しつけられたとか、あるいは、自分で円柱にぶつけてできたたんこぶの上を殴られたとか、そういうふうな話をしていた。」、「暴力債権者が家のほうに押しかけているらしいと、困つておるんだけど警察のほうがその暴力債権者を押えてやるというふうにも言つていた。それがやつていないのにやつたと認めた理由だと。乱暴されたというのも理由だし、暴力債権者を押えてやるというたことも認めた理由だという説明でした。」、「三月一一日の段階で被疑者が警察で乱暴されたということを申したのと暴力債権者云々という話とそれからもう一つがその妹の結婚の話でした。で、そのときは、警察のほうが妹の勤め先に押しかけて、兄貴が人殺しをしたことをバラすぞというふうに警察に言われたということも本人が申しておりました。ですから、自白をしたのは、その三つの理由があるんだということを申しておりました。ただ、まあ、三つあるけれども、自分は土方の親方なので自分自身が乱暴されるというようなことは全然こたえないと。だけどその妹のことを言われたのが一番こたえたということを本人は申しておりました。」などと証言し、さらに、弁護人から「殺人の起訴が終わつた後に、弁護人の私のほうから、余罪を起訴するのは約束違反だと、被告人と警察との間で余罪を起訴しないということで被告人が殺人を認めたんだと、だからせめて余罪は起訴しないでくれという趣旨の電話を私がしまして。検察官のほうが、いやそれは余罪の捜査は続けるし追起訴もするということを言われたのを覚えているんですが。今のような私とあなたのやりとりがあつたのは覚えておられますか。」と質問されたのに対し、「……そう言われれば、うつすらと思い出しますね。」と答えていること
7 被告人が逮捕当時はいていたコールテンズボンにはひざのあたりにカギ裂き穴があるところ、その任意提出書の日付(被告人の筆跡ではない)は逮捕当日である二月二二日になつており、所有権放棄書の日付(被告人の自筆)も同日になつている(ちなみに同ズボンについての鑑定嘱託書の日付は同月二七日であり、鑑定結果回答書における鑑定従事期間は同月二七日から三月一七日までとなつている)が、右任意提出書の被告人の年齢の記載(被告人の自筆)が三二歳になつている(被告人は昭和二四年二月二三日生れである)ことや、留置人名簿、留置人接見簿等をみても逮捕当日ころに着替用ズボンの携帯、差入れのあつた形跡は認められないこと等からすれば、右二月二二日との各日付の正確性については疑義の余地があり、「右ズボンを実際に提出したのはそれより後のことであつて、この間留置中このズボンをはいており、右カギ裂き穴は、取調室の板の間に正座を強制されたときに床の釘にひつかかつて生じたものである」との被告人の供述はにわかに否定しがたいこと
その他被告人の供述は詳細かつ具体的であり、前後とくに矛盾するところがなく、留置人出入簿の記載その他から認められる客観的事実とも符合し、部分的に了解できるところも多く、全体として整合性があること(なお、取調中説得にさいして被害者の死後の写真を被告人に見せたことは警察官らもその証言で認めるところである。)などに照らし、被告人の前記二の供述は、部分的には多少の誇張や記憶違いその他判断の誤り(誤解)のあり得ることは当然であるとしても、検察官の取調べ態度(供述を聴く態度)に関する点を除き、その大筋において真実に近いように考えられるのである。
なお、被告人は三月九日弁護人と接見したさい弁護人から「検察官にはよく言つておくのでちやんともう一度本当のことを話すように。」と言われ、同月一一日検察官の取調べを受けたさい、南港の現場における殺害行為を否認するとともに、少なくとも右6の証言にあるように訴えたが、検察官は、その前日ころに弁護人から同証言にあるように告げられ、また三月一一日に被告人から右のように訴えられたのにもかかわらず、警察に電話をして「そういう事実はない。」との返事を聞いた後、被告人に「やつてないのなら警察ではつきり言いなさい。遠慮することはない。」というようなことを申しただけで被告人を警察に帰してしまつていること、一方、児島班長は検察官から被告人が否認した旨の電話連絡を受け、検察庁へ同行した取調担当の松本刑事も直接検察官から被告人の否認したことを聞いて帰つており、同日検察庁での取調べから帰り午後七時四〇分に帰房した被告人は、その後午後八時九分から一〇時五五分までの間再び房を出されて警察官の取調を受けるところとなり、翌一二日午前中も検察庁の取調に向う前に警察官から取調を受けたこと、この間、三月二日の夜に一時被告人を取調べ自白するよう説得にあたつた児島班長も再度被告人の取調に従事しており、かくして被告人は三月一二日午前中に再び自白に転じた供述調書(司法警察員による)を作成され、同日午後の検察官による取調以降においても右自白を維持したことが証拠上明白である。
四 そこで各供述調書及び供述書の証拠能力について検討すれば以下のとおりである。
(一) 司法警察員に対する二月二二日付供述調書
主として身上関係についての供述を内容とするもので、逮捕当日に作成され、被告人自身任意に供述したことを認めているのであるから、任意性には何らの疑いもない。その供述事項に徴しても特に信用すべき情況のもとにされた供述であると認められるから刑訴法三二二条一項の要件を満たし、証拠能力がある。
(二) 司法警察員に対する二月二五日付供述調書
第一項は、その記載内容からして当時の被告人の供述を正しく録取したものとは認められないが、その余は、中沢組飯場の模様や中西清美を雇い入れたいきさつ等に関するもので、その供述内容からすれば任意性はあるものと考えられ、刑訴法三二二条一項に従い証拠能力を認めることができる。
(三) 上申書と題する三月二日付供述書、司法警察員に対する三月三日付、同月四日付、同月五日付、同月六日付、同月七日付、同月九日付(番号9、一三枚綴りのもの)、同月一〇日付、同月一二日付、同月一三日付及び同月一四日付各供述調書ならびに「今の私しの気持」と題する同月一四日付供述書
三で判断したところによればこれら各書面の供述にはその任意性に疑いがある。すなわち、被告人は留置中の住吉警察署において、本件殺人被疑事件の捜査(ことに被告人の取調)を担当した警察官らから大要被告人が述べるような暴行(拷問)、脅迫ないし利益誘導を受け、その影響下において右供述(自白ないし不利益事実の承認)をした疑いが濃厚であつて、右各書面は、その供述の任意性に疑いがあり、記述内容の真否にかかわらず証拠能力を認めることができない。
(四) 司法警察員に対する三月九日付供述調書(請求番号8、本文四枚綴りのもの)
中沢組飯場で働いていた人夫数名についての説明、写真割りについての供述を内容とするものであつて、その供述事項及び当時はすでに暴行のなかつたことに徴し任意性を認めて差支えないと解され、刑訴法三二二条一項に従い証拠能力があると考えられる。
(五) 検察官に対する三月四日付供述調書
検察庁において検察官が取調べたときの供述を内容とするものであるが、検察官の取調は被告人の身柄が住吉警察に留置され警察官による取調が進行している状況下においてこれと平行してなされたものであり、しかも検察庁へ護送される自動車の中で取調担当の警察官から「絶対に殴つたんをひつくり返すなよ。ひつくり返したらどないなるか分つとるな。」と釘をさされていた疑いがあり、さらに検察官の取調時、取調担当の警察官が取調室に滞留したままであつたから、右供述調書は、警察官による不当な取調(強制)の影響力の存続する状況下で作成されたものと考えざるをえず、やはり供述の任意性に疑いがあつて証拠能力を認めることができない。
(六) 検察官に対する三月一一日付供述調書
中沢組飯場における中西清美に対する暴行等に関する供述を内容とするものであつて、南港の現場における殺害行為についてはなんら触れられておらず、同日の取調では、検察官のほうでも取調の当初のころから警察官を取調室の外に出すなどの配慮をし、被告人も前々日の弁護人の助言のもとに南港での殺害行為を否認し、かつ前記三の6のとおり訴えているのであつて、当日のこのような取調べの雰囲気を考えると右供述調書中の供述についても任意性を認めて差支えがなく、刑訴法三二二条一項により証拠能力を認めることができる。
(七) 検察官に対する三月一二日付及び三月一三日付各供述調書
検察庁において検察官が取調べたときの供述を内容とするものであり、これら両日の取調べにおいて検察官は初めから警察官を取調室外に出すなどの配慮をしているが、三で判断したところ(ことに末段で認定した経過参照。被告人は三月一一日以後も拘置所に移監されたりすることなく警察への留置を続けられており、ことに三月一一日検察庁で否認して警察に戻された後翌日再自白に転じるまでの間に、右否認をしたことを理由に取調担当の警察官らから従前と同じような暴行(拷問)、脅迫ないし利益誘導を受けた疑いが強い。)によれば、これら供述調書もまた警察官による不当な取調(強制)の影響力がなんら遮断、排除されていない状況のもとで作成されたと言わざるを得ない。
取調べにあたつた検察官は、前日否認した被告人が三月一二日になつて再び自白するまでの間に警察官による取調べがあつたか否か、そのさいのことについて被告人は前日と同じような訴えをしないかにつき格別関心を払つた形跡はないが、その証言することによれば、「三月一二日の取調では、最初の段階で南港で被害者を殴つたのかどうか確認したところ、きつぱり認めていた。(三月一一日に否認し、三月一二日に認め、そのように一日で供述が)変わつた理由については、結局自分が警察で乱暴されたのは間違いない、しかしそれはそれとして自分が角材で殴つて殺したのも間違いない。被害者のことを考えて罪の償いをしたいという気持から、やつたことは素直に認めたほうがいいだろうということで話するようになつたと。乱暴されたのは事実だけど、また自分が角材で殴つたのも事実だということをきつぱり話していた。」というのであり、また右各供述調書には、南港に向う途中や南港における被告人の心理の動き、バタ角の持ち方についてなぜそのような持ち方をしたかの説明等につき、司法警察員に対する供述調書にはない供述記載が若干存し、さらに三月一三日付供述調書には、「検察庁では自分の言いたいことを全部話したのか」との問に対するものとして「検察庁では四回調べてもらつたが、最初のときはうしろに刑事さんが座つていたのでちよつと話しにくいこともあつたが、後の三回は刑事を部屋の外に出してもらつていたので、私としては遠慮せず本当の気持ちを話した」旨の供述記載があるが、これらの諸点を考慮しても右の判断には変るところがない。
してみれば、これら各供述調書についてもその供述の任意性には疑いがあり、記述内容の真否にかかわらず証拠能力を認めることができない。
(八) 司法警察員(同年三月二四日付、同月二五日付、同月二六日付、同月三一日付)及び検察官(同年四月四日付)に対する各供述調書
いずれも松本隆夫に対する傷害事件に関する供述を内容とするが、この件についての取調では無理な取調がなかつたことを被告人自身が認めている。なお、被告人は本件殺人で起訴された後家族と面会して清水慶豊の件で警察が全く面倒をみてくれていないことを聞いており、また児島警部からは、三月一五日か一六日ころ、被告人が検事調べで否認したから本件傷害の件等を追起訴すると告げられたというのであるから、右傷害事件の供述時には警察官の利益誘導等による強制の影響もすでになかつたものと考えられる。したがつて右各供述調書には供述の任意性があり、刑訴法三二二条一項に従い証拠能力があるものと認められる。
五 よつて主文のとおり決定する。
(裁判官 岡本健 松本芳希 永野厚郎)
一覧表(一) 被告人の供述調書
番号
作成月日
(昭和56年)
取調官
1
2・22
小塩巡査部長
2
2・25
〃
3
3・3
〃
4
3・4
〃
5
3・5
〃
6
3・6
〃
7
3・7
〃
8
3・9
(本文四枚綴りのもの)
松本巡査部長
17
3・13
中村検事
9
3・9
(一三枚綴りのもの)
小塩巡査部長
10
3・10
松本巡査部長
11
3・12
小塩巡査部長
12
3・13
松本巡査部長
13
3・14
〃
14
3・4
中村検事
15
3・11
〃
16
3・12
〃
29
3・24
松本巡査部長
30
3・25
〃
31
3・26
松本巡査部長
32
3・31
〃
33
4・4
坂本検事
一覧表(二) 被告人の供述書
番号
作成日付(昭和56年)
表題
34
3・2
「上申書」
35
3・14
「今の私しの気持」
別紙一
被告人に対する取調べ及び自白等の経過
被告人は、昭和五六年二月二二日午前六時三〇分中西清美に対する殺人の被疑事実により逮捕され、同日午前八時大阪府住吉警察署に引致されるとともに弁解録取の手続を受けたが、逮捕状の被疑事実中、大阪市住之江区南港南三丁目八番地横浜鋼業株式会社南港スチールセンター北側資材置場内(以下単に「南港」という。)において被害者の頭部を鈍器ようのもので殴打し殺害したとの点を否認した。弁解録取後午前一〇時一五分ころから一一時二〇分ころまでは大阪府警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員荒砂正名及び同松野凱典によりポリグラフ検査を受けた。午後は身上関係を中心に取調を受け、それらを内容とする同日付供述調書が作成されたが、南港での殺害行為については否認を続け、被害者は天王寺まで連れていつてそこで降ろして別れた旨の供述をしていた。同月二三日検察庁での弁解録取、同月二四日裁判所で裁判官の勾留質問を受けたが、いずれも南港での殺害行為を否認し、被害者は西成まで連れて行つて別れた旨の供述を続けた。ところが被告人は同日午後住吉署での取調に際し、南港まで行つたことは認め、南港で見た状況を図面に書いた。同月二五日は中沢組の飯場の状況等について述べた供述調書一通が作成されたが、南港での殺害行為についてはそれまで通り否認した。同日夕刻被告人は取調再開のため房から出されたとき留置場内で円柱に頭をぶつけて自傷行為に出たが、同日の医師の診断によれば前額部打撲傷ということであり、湿布の処置を受けた。同月二六日弁護士関戸一考及び同上山勤が家族から依頼されたということで被告人と接見したが、同弁護士らは結局のところ被告人の弁護人になることを辞退した。その後被告人は連日取調を受けたが(出入簿によれば、二月二五日から三月一日まで、食事のための出、帰房を除くと、出房時刻午前九時二〇分ないし午前一〇時一五分、帰房時刻午後六時一〇分ないし午後九時五五分である。)、南港での殺害行為を否認し続け、その間供述調書は一通も作成されなかつた。三月二日は、午前、午後とも取調を受け、午後六時から午後七時四〇分までは前記科学捜査研究所技術吏員荒砂正名及び同土谷彰克によりポリグラフ検査を受けた。被告人は、右検査終了後も取調を受け、さらに午後一〇時ころから午後一一時ころまで、本件で設置された捜査本部の班長の地位にあつた児島利明警部の取調を受けた際、同人に対して南港での殺害行為を自白した。そして児島班長が退室した後被告人は右犯行の自認(南港で被害者の頭を一~二回バタ角でなぐり殺した旨)を内容とする上申書を作成した。三月三日以降三月一〇日まで被告人は右自白を維持した。この間司法警察員に対する三月三日付、四日付、五日付、六日付、七日付、九日付(二通)及び一〇日付各供述調書並びに検察官に対する同月四日付供述調書が作成された。一方同月八日には同行見分(犯行現場等の引当り)が行われ、被告人に犯行状況を再現させるなどして、その状況等を多数写真撮影し、それらをもとに同月二六日付実況見分調書が作成された。なお三月九日は午後五時五分から同四五分まで石橋一晃弁護人が被告人と接見した。三月一一日被告人は午前一〇時ころから夕方ころまで中沢組飯場での状況を中心に検察官の取調を受けたが、その際南港での殺害行為を否認した(同日付検察官調書には殺害行為の否認を内容とする供述は記載されなかつた)。しかし被告人はその日住吉署に帰つた後警察官の取調を受け(出入簿によれば午後八時九分出房、午後一〇時五五分帰房とある。)、翌一二日朝も警察官の取調を受けて、再び南港での犯行を自白するようになり(このとき司法警察員に対する同月一二日付供述調書が作成された)、同日午後の検察官の取調でも自白した(検察官に対する同日付供述調書作成)。被告人は同月一三日、一四日とも自白を維持し、検察官(同月一三日付)及び司法警察員(同月一三日付、同月一四日付)に対する各供述調書が作成されたほか、被告人自ら同月一四日付で「今の私しの気持ち」と題する書面を作成提出した。同日被告人は殺人罪で公訴を提起され、また、接見禁止になつていたわけではないのに、同日午後になつてはじめて家族との面会を許された。その後被告人は松本隆夫に対する傷害事件で取調を受けるところとなり、司法警察員(三月二四日付、同月二五日付、同月二六日付、同月三一日付)及び検察官(四月四日付)に対する各供述調書が作成された。
別紙二
警察官による暴行等に関する被告人の供述の概要
注 A~Iの各刑事については、被告人はそれぞれ実名をあげて供述しているものである。
一 警察官の暴行は逮捕の翌日である昭和五八年二月二三日から始まつた。角材で殴つたことを認めさせようとする警察官からいろいろな暴行を受けたが、それらは南港での殺害行為を自白した同年三月二日まで毎日続いた。まず二人の警察官が両側からそれぞれ耳を引つ張り耳もとに口を寄せて「返事せい」とか「何でしやべらんのだ」「ばかもん」などと大声でどなつたりした。またA刑事はジヤンパーの前えりをつかみ吊り上げるようにして首を締め上げ取調室の壁に頭を打ち当てさせ、同時にみぞおちを殴つたりしてきたが、そのようなときB刑事もいつしよになつてみぞおちを殴つたりした。右のようにえり首を持ち上げられて打ち当てられたほかにも起立したまま額を突かれて頭部を壁に打ち当てられたこともあり、それらの暴行のため後頭部や側頭部にこぶができた。さらにA刑事には、板の間に正座させられたうえ肩車のようにして乗りかかられ、次第に重みに耐えかねて前かがみになると、B、C、D、E刑事らがみぞおちを殴つたり太股の上を皮靴で踏みつけたりしてきた。F刑事からは細字用のマジツクを指の間にはさませられその上からぐつと握り締められたりしたため、指の皮が四ヶ所めくれた。四本脚の丸いすを横に倒していすの脚の上にむりやり正座させられたりもし、そのようなときはただでさえむこうずねが痛むのに、A刑事やG刑事は肩の上に乗りかかつてきて、ときどき足をあげながら「しやべらんか」「認めんかい」とせめあげた。そのためむこうずねが腫れ(パツチ二枚をはいていたので傷が破れるところまではいかなかつた。)、三月九日石橋弁護人との接見時に足をみてもらつたときにもぼこぼこに腫れていた(検察官にはいすの上に正座するよう、強制されたことは言つたがむこうずねの腫れは見せていない)。H刑事には被害者(死体)を撮影した写真を起立した状態で手をまつすぐ水平に延ばして眼の位置に一時間半から二時間も持たされ、「おまえが殴つたと認めんと殺されたおつさんが浮かばれん。おまえが殺したん間違いないんやから仏さん謝るつもりで持つとけ」などと言われ、手が下がると、A刑事やB刑事から腕や肩やみぞおちを殴られたりした。ほかにも後ろから首に手を回して締め上げたり、いすの脚の上に座らされて痛めたむこうずねを蹴られるなどの暴行を受け、またA、B刑事に耳を上下、前後にこするようにもまれたため、今も左の耳に軟骨のようなしこりができており、正座させられた状態で髪の毛を持つて振り回されたときには目が回るほどやられた。以上のような暴行は三月二日まで毎日続いたが、これらは三、四人ずつ組になつた警察官が一五分ないし二〇分くらいで交替して取調室に入つてきては繰り返したものである。
二 二月二五日留置場の柱に頭をぶつけて医者の診察を受けたことがあつたが、これは夕食のため帰房し再び取調室に戻る際のことで、帰房する前に今度取調室に入つたら絶対に認めないといけないと言われていたこととそれまでにかなり拷問を受けていたことから、取調室に入つたら認めさせられると思い、認めずにすますには柱に頭をぶつけて気を失い、入院するのがよいと考えるに至り、房のドアをあけられたとたん、そのまま柱に向かつてぶつかつたのであり、額に直径五、六センチメートルの腫れができた。その後の取調で犯行を否認したようなとき、H刑事はこの額の腫れのところに頭突きをしたり中指ではじいたりしてきたが、そのときはこらえきれないほど痛く、腫れもなかなかなおらなかつた。
三 三月二日は朝の九時から一〇時の間に取調に入り、H、A、Bの三人の刑事に午後二時過ぎまで調べられたが、その間髪の毛をつかんで振り回したり、いすの脚の上に座らせたり、板の間に正座させたり、前えりを締め上げて頭を取調室の壁にぶつけたり(三回くらい脳震盪をおこした)拷問の連続であり、午後二時過ぎころH刑事は「中沢おまえみたいな強情なやつは知らん。おまえみたいに殴つたつて認めん人間は若い刑事にかわいがつてもらわな分らん。」「わしが今度この部屋に入つてくるときはおまえが殴つたと認めたときやないと入つてこんからな、その間若い衆にかわいがつてもらえ」と言い残してA刑事とともに出て行き、G、F外一名の刑事が入れ替わりに入つてきた。F刑事は弁当を持たせてこさせながら、それを手で食べるように言うので、「わしは猿と違うさかい結構ですわ」と弁当を返すとこれさいわいに弁当を引き上げてしまい、そのまま取調が続行された。F刑事は細字用マジツクを指にはさんで上から握り締めたりする暴行を加え、G刑事はジヤンパーの前えりを締め上げ壁に頭をぶつけるなどした。その後E、D、C刑事が交替に入つてきて、首を締められたり殴られたり正座を強制されたりする暴行を受け、さらに他の二名の刑事らに交替し、最後にまたG、F外一名の刑事が入つてきた。
F刑事は「ポリグラフの結果殴つたと出たらおまえ認めえ、そのかわり殴つたと出んかつたらおまえの言い分を聞いてやる。」と言うので、検査を受けることを承諾したら、検査の承諾書とは別に、ポリグラフの結果が殴つたと出たら認める旨の誓約書まで書かされてしまい、そのうえでポリグラフ検査を受けた(検査前かその途中で食事をとらされた)。一時間半くらいして午後七時ころもとの取調室に戻つたとき、F刑事が取調室に入つて来て検査の結果に殴つたと出たから認めろと言われた。検査結果を確認させてくれるように頼んでも「そんなもんみせんでも結果が出とるとわしらがいうているんやから、そんなもん嘘つくわけないやないか、そやから認めんか。」と言われ、自分はやつていないから出るわけはないと思つて否認を続けたが、認めろ、認めないでまた警察官が三人ずつ組になつて暴行を繰り返した。
午後九時ころ児島班長が取調室に入つてきて他の刑事は取調室を出て行つた。児島班長からは、殺人事件以来自分の家の近辺に毎日浮浪者がうろついていること、暴力団の清水慶豊が借用書を持つて取り立てに来ていること、被害者が金を借りていた貝塚の金融機関か極道からも大阪府警に電話があり、被害者が死んだ以上被害者を殺した犯人である中沢のところへ慰謝料や金融の取り立てに行くと言つている(それを大阪府警が今とめている)ことなどを告げられたうえ、「中沢も警察に頼みたいことようけあるやろうけど、殴つたと認めたら、恐喝の清水やら、浮浪者が来とるのやら、貝塚の極道来とるのは大阪府警と地元の上野署でちやんと家族の面倒見てやるから。」などと言われ、たしか一時間くらいそのような話があつた。また松本隆夫に対する傷害(昭和五六年四月三〇日付起訴の分)を含む傷害事件二、三件や、伊賀町役場から「白夜」の営業補償問題との関連で生活扶助料を受領していること、松本隆夫に対する生活扶助料を本人に交付していないことがそれぞれ詐欺に該たるとしてその詐欺事件のことを指摘され、南港で殴つたのを認めさえすれば、それらは目をつむると言われた。その当時は児島班長は警察の偉い人だからいくらでも追起訴する権限があるものと思つていた。さらに「中沢殴つたん認めんだら、捜査いうのは家族から調べるんやから、全部家の近所の聞き込みやら回つたら、殺人のあれやから子供は学校へ行かれんようになるぞ、もちろん田舎で住んでられへんようになる。」と言われ、妹の勤務先や婚約者のところへも取調に行かなくてはならないが結婚が破談になつてもかまわないのか(同じようなことは別のときにH刑事にも言われた)とか、「殴つても殴らんでも殺人には変わりないんやから殴つたのを認めたら裁判官も人間やから情が良うなつて刑が軽くなる。」「もし否認したらおまえはこの留置場から出られん。当分の間取調できるんやぞ。」「おまえは自分だけでしたのに家族子供まで巻きぞえにするのか、子供までが学校へ行けんようになつて住めんようになつたらどうするんや。」などと言われた。最後の締めくくりとして「殴つたの認めたら家族等のことは全部大阪府警や上野管轄の警察で面倒みてやるから家族のことは何も心配せんでもええ。それでもお前は殴つたのを認めんのか。」と言われたので、やはり家族が大事だから認めたほうがよいと思つて認めた。そうしたら児島刑事に「中沢がもし公判でひつくり返したら、わしは証人で何回も出てやる」と言われ、とどめを刺されたと思つた。児島班長が出て行くとH、A、B刑事が入つてきて、自分の飯場で働いていた中西さんを大阪の南港へ連れて行つて殴つて殺した旨の上申書を、警察官の言うとおりに書かされた。三月二日に自白したのは警察官の暴行や児島班長の脅迫、利益誘導のためにそれらの肉体的心理的強制が積み重なつて自白したものであるが、直接のきつかけは清水慶豊の件を言われ、家族のことが心配だつたことである。清水はありもしない借金の返済を請求し監禁したり暴行を加えたりするので、警察に被害申告したところ、それがきつかけで服役をしていたもので、自分が本件で逮捕される前には出所してきていた。自分が家にいさえすれば家族を守つてやることができるとしても家にいないのでは警察に頼むしかないと思い、認めたのである。
四 検察官の取調は検察官が警察の調書の内容どおり棒読みみたいにして事務官に書きとらせて作成させたもので、検察官からところどころ確認的に聞かれたものの、その都度まちがいありませんと答えていただけである。
三月四日は、検察官の取調のために検察庁に向かう自動車の中でH、I刑事から「絶対に殴つたんをひつくり返すなよ。ひつくり返したらどないなるか分かつとるな。」と念を押されたし、取調時もA刑事とB刑事とが取調室に入つていたので本当のことを言い出せなかつた。
三月一一日は朝から検察官の取調があつたが、警察官は検察官の取調室にビニール袋と角材を持つて入りそのあとすぐ外に出た。その日は中沢組の飯場での出来事について取調を受け、取調終了後検察官から何か言いたいことがあるのではないかときかれたので、実は本当は殴つてないと南港での殺害行為を否認した。自白した理由については、警察官から暴行を受けたこと、清水慶豊の件や、妹の勤務先、婚約者のところにも事情聴取しなければならないと言われたことなどがその理由であると話した。しかし検察官はもう一度警察官に調べてもらうように言つた。住吉警察に帰る自動車の中でI刑事から「おまえひつくり返したら、認めんかつたらどないなるんか分つとるのか。署に帰つたらどないなるのか分つとるのか。」と言われた。住吉署へ帰つてからH刑事に「中沢否認するんやつたら初めから否認せんかい。今までの調書みんなパアになつてしまうやないか。」とひどく怒られ、それからまたA、B刑事に正座を強制されたりみぞおちを殴られたり壁に頭をぶつけられたりしたが、そのときは認めなかつた。しかし午後九時半ころ児島班長が入つてきて、三月二日と同じようなことを一時間くらい言われ、三月八日の同行見分時の状況で清水慶豊が自宅に来ていることがわかつていたので、また認めざるをえなくなつた。
翌三月一二日は午前九時ころからH刑事が気が変わらないうちにと言つて南港での殺害行為を認める趣旨の供述調書を作成した。午後から検察庁に行き検察官から「殴つたのを認めるのか」ときかれたが、最初は黙つていて、再度きかれたとき首を縦にふつたら、検察官はそのまま南港での殺害行為を認める供述調書を作つていた。
五 なお、三月八日の同行見分の際は腰ひもをかけられたまま両手錠又は片手錠で手錠をかけられていない状態というのは全くなく、H、I刑事からいちいち指示をされて演技をし、被害者を降ろした場所も警察官に指摘されたうえその辺であると指示したものである。また、三月一四日H、I、A、B刑事から、書けば家族に面会させるというので、言われるままに「今の私しの気持ち」と題する書面を書いたが、そのあとは三時間くらい家族と面会させてくれた。